読書にふける3人の少年少女のシルエット

小学校でのプログラミング必修化を提唱する有識者。しかしその論理には飛躍が多く、事実に立脚しない理想論です。このままでプログラミング必修化に賛同できない理由を説明します。

「プログラミング必須化」に論理はあるか?データに立脚しているか?

2016年7月17日、日本経済新聞朝刊に、「プログラミング教育 小学校に必要か」と題した全面記事が掲載されました。必修化推進の立場から石戸奈々子氏(CANVAS理事長)、拙速な推進を戒める立場から新井紀子氏(国立情報学研究所教授)それぞれのインタビュー記事があり、新聞社による短い論考がつけられています。

「プログラミング教育」は否定しませんが、その実現性については心配してる私。この記事を読むと、心配が確信に変わりました。今のプログラミング教育推進論者の論理には大きな飛躍があります。「プログラミング教育で論理的思考を伸ばす」としていますが、プログラミング教育がなぜ論理的思考を伸ばすのか、プログラミングをどのように教えれば論理的思考に繋がるのか、という点についてはデータやエビデンスのない感覚論でしかないことがわかります。海外で蓄積されている研究成果や知見を踏まえていない点でも、空虚な議論でしかありません。このままプログラミング必修化を進めるのは危険すぎると考えます。

ゆとり教育」を覚えていますか?事実に立脚しない教育論で、社会が再び混乱することは絶対に避けるべきです。

なお、わたしはすでに、「小学校におけるプログラミング教育の在り方と、日本におけるコンピュータサイエンスの欠如」において、文部科学省の有識者会議の内容に対する見解を表明しています。コンピュータサイエンスの一つの構成要素にすぎない「プログラミング」の教育をいくら議論しても、「21世紀に生きる力」の育成には繋がるはずがない、というのがわたしのスタンスです。学問分野としての「コンピュータサイエンス」の欠如が大きな問題を引き起こそうとしているように感じています。。

なお、諸外国では「プログラミング教育」ではなく「コンピュータサイエンス教育」が推進されており、プログラミングはあくまでもコンピュータサイエンスの入口と明確に位置付けられています。日本の議論は、スタート地点から周回遅れの状況にあると言えるでしょう。

今回の記事では、冒頭に掲げた日本経済新聞の記事を引用しながら、プログラミング必修化論の問題点を説明したいと思います。

引用するのは以下の記事です:

プログラミング必修化論者の論理

プログラミング必修化推進の立場の石戸氏。記事におけるその主張は以下のような構成となっています。(かっこ内は記事からの引用)

  1. コンピュータ化によって「産業にとどまらず社会や暮らし、文化が変わっていく」ので、プログラミング教育の必修化は必要。
  2. プログラミングのスキルを教えたいのではなく、「背景にある原理や原則」を教えたい。プログラミングを通じて、「論理的に考えて問題を解決し、他者と協力して新しい価値を創造する力」を学んでほしい。
  3. 子供にプログラミング体験をさせる活動を行っているが、「論理的な思考力が育ったかどうかを客観的に評価するのは難しい。」
  4. しかし「情報通信技術(ICT)をツールとして使いこなし、自分の能力が広がったと感じる子供はいる。ネットを介して世界中の知識にアクセスし、多様な文化的背景を持つ人たちとコミュニケーションして、自分のアイデアを形にしている」
  5. 日本のプログラミング教育で最も大きな課題は「ネット環境の整備」

不明確な目的、そして目的と手段の不整合

このような内容で、プログラミングを義務教育化するのは大変危険です。第一に、プログラミング教育の目標が曖昧です。石戸氏は以下の3つを列挙しています:

  1. プログラミングの背景にある原理や原則
  2. 論理的に考える力
  3. 他者と協力して新しい価値を創造する力

石戸氏は上記の3つが同じものであり、同じ手法で同時に育成できるものと主張しているのでしょうか?もしそうであれば、それは自明ではないので説明が必要です。もし3つが異なるものであれば、果たしてプログラミングでもって一度に育成できるものなのでしょうか?とてもそうは思えません。

さらに石戸氏は、インタビュアーの質問に答えるかたちで、「プログラミングによって論理的思考力が育ったかどうかを客観的に評価するのは難しい」、つまりそれを立証するデータが無いと明確に述べています。これでも、上記の3つの目的に対して、プログラミング教育が有効な手段であると納得できるでしょうか?

論理的思考力を育成するというエビデンスはないと認めたうえで、石戸氏は別の事例を挙げて自身の論理を補強しようとします。つまり、プログラミングで「自分の能力が広がったと感じる子供」や「ネットを介して世界中の知識にアクセスし、多様な文化的背景を持つ人たちとコミュニケーションして、自分のアイデアを形にする」子供もいる、と述べています。

これ自体は大変結構ですが、それは石戸氏自身の活動において観察された事例にすぎません。プログラミング体験にわざわざ参加する子どもの集団は、義務教育に参加している子どもの集団とは、関心興味や家庭環境も異なります。そもそも男女比からして、おそらく前者は圧倒的に男子が多数とも思われます。「意識の高い、恵まれた家庭の子の一部」にとって得るものがあったからといって、それは日本全国の子供にあてはまると言えるでしょうか。

また、ここでもデータの無い議論には意味がありません。石戸氏ご自身の活動に参加した子供のうち、そのように「自分の能力が広がった」と感じ、その後の学習や生活に正の影響を受けた子供はどのくらいいたのでしょうか。プログラミング体験が必ず楽しく意味のあるものとは限りません。「プログラミングはつまらない」「自分はプログラミングなどしたくない」と感じた参加者もいたのではないでしょうか。

義務教育化するというのであれば、このような疑問点をデータに基づいて一つずつ潰していく地道な活動が必要なはずです。

プログラミング教育に必要なものはITインフラだけ?

そして日本におけるプログラミング教育の課題は「ネット環境の整備」という指摘にも驚きます。石戸氏は以下のような論理を展開します。

  1. ネット環境が整うと、デジタル教科書が普及する。
  2. デジタル教科書が普及すると(?)子どもたちの学習進度に合わせた出題ができる。
  3. デジタル教科書が普及すると(?)、子どもたち同士で学びあうこともできる。
  4. デジタル教科書が普及すると(?)、採点が早くできるので、空いた時間に先生は生徒に向き合える。

※上記の2~4がなぜ起こるのかは記事には明確に記載がありません。しかし「ネット環境が整うとデジタル教科書が普及する」という記載のあとなので、「デジタル教科書が普及すると」という意味と推測しています。いずれにせよ、石戸氏の主張を論理的に理解することは極めて困難です。(2016年7月21日追記)

ネット環境やデジタル教科書は、プログラミングだけでなく、教育の全ての課題を解決する、と石戸氏は主張しているかのようです。これは本当でしょうか?

「ゆとり教育」でも同じような効果が得られそうではないですか?

  • 学習時間と内容を減らし、思考力を鍛える学習に重きを置くことで、子どもたちの学習進度に合わせた出題ができる。
  • 学習時間と内容を減らし、思考力を鍛える学習に重きを置くことで、子どもたち同士で学びあうこともできる。
  • 学習時間と内容を減らし、思考力を鍛える学習に重きを置くことで、先生は生徒に向き合える。

ところで、石戸氏は小中学校におけるパソコンの台数が日本は少ないことを問題視しているようですが、それはそもそもパソコン台数が教育の効果に影響を与えることが前提。パソコンやITインフラの整備状況は、学校教育の効果にほとんど影響を与えないことはすでに研究で明らかになっています。

この点は以下に詳しい:

わたしはプログラミング教育には意義はありえると思います。しかし、石戸氏のような論理に基づいてプログラミング教育を必修化することは絶対に避けるべきと考えます。

拙速な議論をすべきでない理由

同じ記事での、新井氏の主張を概要のみ紹介します。

  • 「英語やプログラミングを少し導入したら、グローバル人材が育つと考えるのは幻想」
  • 「大人は自分が好きで関心があることや、身を立てた経験があることを子どもたちにさせてみたいと考える。[…]それは大人の勝手だ。」
  • 「カリキュラムはいっぱいだ。子どもが吸収できる能力を超えている」
  • 「流動性の高い世の中では読解力を備えて生涯学習できる能力が最も大事だ」
  • 「仕様書も正しく読めないようなプログラマーではたいしたお金は稼げない。プログラムに欠陥があってトラブルを起こす原因はたいていの場合、仕様書がきちんと読めていないからではないか。」

まったくもってその通りですが、世間の流れは石戸氏流のプログラミング教育必修化の流れなのでしょうか。大きな危惧を持って、動向を見守ります。いずれ、海外でのプログラミング/コンピュータサイエンス教育の考え方についてこのブログで紹介しようと思います。

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(かながわグローバルIT研究所 森岡剛)